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2009-11-28

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http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/


第一部  13時30分から14時30分まで

構想発表 「善さと無限な時間――レヴィナスによるカント読解を手がかりに」田中 隆伯

レヴィナスのテクストには、主著である『全体性と無限』にあってすら、顧みられることのない論点がいくつも存在する。その原因の一端は 、そこで展開される議論が、哲学史上のどういった問題に応じるものであるのかということが明示的には示されていない点にあるように思われる。だが、そのようなかたちで進められる議論であっても、それが参照されるべき他の哲学的な議論を想定することなしにレヴィナスによって語られているとは考えにくい。論述において語ることが問いかけることでもあるのならば、それは、すでに問われどこかで語られたことの反響をすでに内に含んでいるのではないだろうか。本発表では、レヴィナス自身によるカント読解を傍証のひとつとして、レヴィナスのテクストのなかにありうる読解の可能性を探っていくことにしたい。例えば、レヴィナスの講義録におけるカント読解が「最高善」や「希望」といった論点に集中していることが手がかりのひとつとなるだろう。そういった作業のなかから、レヴィナスが踏まえていたであろう問題意識へと接近し、『全体性と無限』においてレヴィナスがなにごとかを語りだそうとするその地点へと迫っていくことを試みたい。

【参考文献】

第二部  14時40分から16時40分まで

発表   「自己認識と行為――シェーラーの自己錯誤論の倫理学的射程」 宮村 悠介

いわゆる「心情倫理」と見なされる倫理学説において、自己の心的なものの認識の可能性は、厳しく吟味されることなく、あいまいに前提されることが多いようにおもわれる。しかし自分自身の心情を確実に知ることは難しい。徹底した哲学的な分析によって、自己の心的なものの認識の特権的な確実性が否定され、そうした認識の原理的な困難と限界が示されるならば、先の倫理学説は重大な問題に直面し、動機や行為といった諸概念の再検討が必要となるはずである。

本発表はこうした問題意識のもと、マックス・シェーラーが提起し分析する「自己錯誤」の問題と、この論点のシェーラー自身の倫理学説への帰結を検討する。とりわけ、倫理において「心術」(心情)こそが問題であり、しかしその「心術」を知ることが原理的に困難であるとする前提を、カントの倫理学説と共有しながらも、シェーラーが提示する心術と行為との連関についての、独自の理論に注目したい。以上の論点をめぐるシェーラーの分析に学びつつ、自己認識の困難と限界に見あった倫理学的思考の方向をさぐること、このことが本発表の主要な課題である。

【参考文献】
  • M.シェーラー「自己認識の偶像」(『シェーラー著作集5 価値の転倒(下)』白水社、一九七七年)
  • M.シェーラー「実質的倫理学と結果倫理学」(『シェーラー著作集1 倫理学における形式主義と実質的価値倫理学(上)』白水社、一九七六年)
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